荷物。

 

 

 

 

ようこそ、宇宙喫茶 くらげやへ。

 

 

 

 

 

 

 

 

今、自分に必要なものだけでいいなぁ、と思う今日この頃です。

 

 

 

生きていると、多くの経験をします。

 

その中で、私自身救われた言葉や有難かった誰かの行動は

確かにあります。

 

けれど、その多くは

振り返った視点から、であって

「その時」そう感じることはできませんでした。

 

 

それにあくまで、私が、そういうふうに感じただけのことです。

 

それが素晴らしい行為だとか、

相手にその意図があったか無かったかとか。

それは、定かではありません。

 

 

そもそも、どうしたって

思いやりや気遣いは一歩通行です。

 

どこまでいっても、私たちは主観から逃れられません。

 

 

だから、それが全てでは無いにせよ

数字という客観性が必要になるのですよね。

 

 

誰かに何かしてあげたい、なんて

烏滸がましいのだなぁと

改めて、謙虚な気持ちを思い出しています。

 

 

 

 

 

 

 

感情も思考も、持ち物も情報も

いつか役に立つかもしれない、なんて冬眠前のリスの様に溜め込んでいても

仕方がありません。

 

 

その時その時。

 

必要なものを「その時」に探し当てるしかないのだから、

平素は身軽でいた方がいい。

 

 

そもそも、持っている、といことが既に

その内容に関わらず、重荷になっていることもあります。

 

 

得るよりも、手放す方が難しいのです。

人間、一度手に入れたとなると、惜しんでしまうものですから。

 

 

執着が苦しみを生む、という仏教の教えの通りならば

荷物の多さは、苦の多さになります。

 

 

特に、意識の下の方にあるこだわりなんかは

そもそも気づくのが困難です。

 

そして、

1つから自由になってもまたひとつ

 

良くも悪くも、終わりはなく、

私たちは変化を続けています。

 

私たちが全ての執着から逃れるのは、なかなかに難儀な道の様ですねぇ

 

 

 

 

すっかり春も近いので、内も外も断捨離をしながら

こんなことを考えています。

 

 

元々、小さく暮らしてはいるのですが

凝り性と言いますか、何かと突き詰めて考えては

こだわりたい性分なので、思考の整理には一苦労です。

 

 

楽しいうちは、いいんですけどね。

ちょっと目を離した隙に、むくむく大きくなっていて

とても扱えなくなっていることがありますので。

 

 

今の自分に必要なものか。

もう役目を終えたものか。

そして

これからの自分が持っていたいものか。

 

 

ただ 惜しい という感情だけで置いておけるほど

私たちの容量に余裕はないかもしれません。

 

 

自分への思いも、誰かへの思いも。

執着もこだわりも。

過去も未来も。

 

実際の物質以上に、断捨離が必要なものは多いです。

 

 

 

 

どうでしょう。

せっかくですから、ご一緒に。

 

今週はお天気がすぐれない日が多いようですし、

雨の音にこころを鎮めて

持ち過ぎてしまった荷物を点検しませんか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それでは、この辺りで。

またのお越しを。

 

時間。

 

 

 

 

ようこそ、宇宙喫茶 くらげやへ。

 

 

 

 

 

 

 

 

私は、いつも決まってこのくらいの時間に

こうして文章を書いていますが、

時間というものとの関わり方は、その人の性格や性質が出るなぁ、と思います。

 

 

 

私は、待ち合わせは大抵早く着いて、

定刻まで近場で時間を潰していることが殆どです。

 

直前になって慌てるのが嫌なので、待つことは苦になりません。

特に何も連絡がなくても、定刻30分過ぎまでは待ちます。

 

これは、私の元々のんびりした性格と

比較的時間にルーズな知人友人が多いことの結果でしょうね。

 

 

時間に正確かどうか以外にも、時間の認識は生活の中で

大きく私たちに関わってきます。

 

 

 

私たちは、何気なく普通に生活していても、だんだんリズムを見出し

自然とスケジュールの様なものが定まってくるものです。

 

 

そこから何かあってズレが生じると、妙にソワソワしたりもします。

 

 

しかし、実際になんでかんで必ずその時間、順番でなくてはいけないということは

あまりないと思います。

 

 

規則正しい生活や、良い習慣、ルーティンがもてはやされる世の中ですが、

あまり決めつけすぎると、不必要な障害を生みますし

 

 

この時間にはこうしないと、とあまり意識しすぎることは

夢中や没頭、という状態から私たちを遠ざけるそうです。

 

 

 

もちろん、規則正しい生活は大切ですし

1人の大人として生きていれば、時間厳守のことは多く、

日々時間に追われ、やるべきことはたくさんあります。

 

 

 

ですが

最後に何かに時間を忘れて取り組んだのはいつだろう、と振り返って

小学生の夏休みなんかまで遡らないといけないのも、少し寂しい話です。

 

 

 

今は、時間ができると見るともなくスマホを眺め

気がつくとすっかり時間が経っている、ということもあると思いますが

それは、夢中というより上の空に近い気がします。

 

その上、

何をしていたというわけでも無いとすれば

長い時間が経っていても、心地よい疲労感を得られたりはしないでしょう。

 

 

 

今思い出してみても

学生時代の夏休みなんて、大してやることなど無かったはずなのに

私はあまり退屈した記憶がありません。

 

そうした時間が、仮にあったとしても

今忌み嫌っているほど嫌な感じではなかった気がします。

 

 

 

何でもいいからやることを模索してみて、

片っ端からやっているうちに

何かにスポッと着地して、いつの間にか夢中になっている。

 

 

夕食に呼ばれるまで、他のことは何にも知らないでいる。

 

 

 

そういう時間が、今になってとても恋しく感じるのは

私だけでは無いはず。

 

 

 

 

没頭できる趣味があることは素敵なことですが、

それは、趣味に出会おう出逢おうと探すのではなく

誤魔化さず、しっかりと退屈に浸る時間から出会うものでは無いでしょうか。

 

 

 

 

今日はちょうど日曜日ですが、

1日くらい時計を見ないで、全て自分のタイミングでやってみるというのは

なかなか面白そうな響きです。

 

 

夢中、にすぐに出会えるかはわかりませんが

何度もやっているうちに、きっと発見はあるでしょう。

 

 

 

普段やっていることの順番を入れ替えるだけで、案外気分が変わるのが人間です。

 

 

 

子供の頃のように、身軽に時間を飛び越えることができたなら。

 

 

 

あまり意識しすぎるといけませんが、

時には自ら意識して、枠を飛び越えてるのが必要かもしれませんね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それでは、またのお越しを。

 

ことば。

 

 

 

 

ようこそ、宇宙喫茶 くらげやへ。

 

 

 

 

 

 

 

晴れたり曇ったり、いかにも季節の変わり目の天気が続きますね。

 

季節柄、ということもなく

私は大抵いつもぼんやりと考え事をしていますが

こんなふわふわした時期は、とりわけそんな時間が増えるような気がします。

 

 

 

私の考え事は悩み事ではないので、

答えを出すことを目的としていません。

 

ただあちこちへ思考や意識を巡らせて、

気が済んだらそこでおしまい、という散歩のようなものです。

 

 

そうしていると、よくわからない感覚に陥ることも度々あります。

 

そんな時はどうしようもないので、捉えどころのないまま

ぼんやりと眺めている様な心地で過ごします。

 

 

そして、

言葉によらないものがあると理解すること。

と同時に

少なくとも、言葉にしようと努めること。

という矛盾した2つのことは、どちらも大切だなぁと思うのです。

 

 

 

 

私たちは言語を介してコミュニケーションを取りますから、

当然、自分の考えや感じたことを言葉にして伝えることが必要です。

 

それは、私たちが私たち自身とやりとりをする時も同じく。

 

自分はどう感じ、どう思っていて、どうしたいのか。

しっかり分かっていないと、本心と実際の言動がチグハグになって

うまく舵を取ることができず、何かモヤモヤしたものがいつも残る羽目になります。

 

 

特に、「なぜ」という問いは、何に対してでも確信に近いことが多いので、

多少時間がかかっても、言語化を試みることをお勧めします。

 

 

 

もちろん、理由のないこと、

あまりに複雑か、或いは単純すぎて言語化できないものは、あります。

 

 

何でも言語化した方が、確かにわかりやすくはあるのです。

 

感じ方は人それぞれ、必ず人は共通ではない認識を持っていますから

せめてある程度の「共通」を担保できるものを用いなければ

意思の疎通は困難です。

 

 

しかし、同時に

言語化することで 限られてしまうことは必ずあります。

 

何かの枠に嵌めようとすることは、その外側を切り捨てることです。

 

 

 

 

私は全くおんなじ音源を、CDとレコードで聞かせてもらう機会がありました。

レコードには含まれる、ある特定の周波数は、情報の量の関係と、

どうせ人間には聞こえない周波数なので、CDではカットされているらしいのですが

 

明らかに、素人耳にも音が違うのです。

 

 

聞こえない周波数分の、余白の音。

 

 

 

枠の外側を意識しながら、内側を見極めることと

外をすっぱり切り捨てて、なかったことにしてしまうのでは

 

同じ内側だとしても、その中身は全く違ったものです。

 

 

 

 

言葉の外を感じながら、掴めないものを感じながら

それでも言葉にしていくこと。

 

相手のそれを感じたり、自分の言葉も

常に実験のように編んでいったり。

 

これは、人と話していたり文書を読んでいる時の

私の密かな楽しみでもあります。

 

 

 

 

言葉、とは不思議です。

 

共通認識記号でありながら、結局は記号でしかないので

各々の持っている意味は、厳密には異なります。

 

ちょっと、が5分の人と、15分の人がいる、というのは

わかりやすい例ですが

あらゆる単語に、それは絶妙に含まれています。

 

 

だから、他人を完全に理解する、共感する、ということは

根本的に不可能だと、私は思っています。

 

 

それでも、試みること。

 

努めること。

 

それが、コミュニケーションの基本ですね。

 

 

 

 

人との関わり、自分との関わり、言葉というものとの関わり。

 

 

言霊、というのもありますからね。

 

いつもより少しだけ、意識してみてくださいませ。

 

 

 

 

 

 

 

それでは、またのお越しを。

 

つらつらと。

 

 

 

 

ようこそ、宇宙喫茶 くらげやへ。

 

 

 

 

 

 

 

細切れの話になってしまいますが、

引き続き、ブレない強さの小噺を。

 

 

 

 

私は、なんでもノートに書く習慣があります。

 

毎日必ずノートを開いては、その日あったこと、考えたこと、

やるべきことや自問など

とにかくなんでも好きに書くノートが存在し、

それをどんどん積み重ねています。

 

 

特に自問は、自分の軸、強さを知るにはとても有用です。

 

 

 

何をしている時、どんな気持ちになるか。

なぜ、それをするのか。

その思いの出処はどこなのか。

 

今までで最も嬉しかった経験、贈り物、言葉は何か。

自分にキャッチフレーズをつけるなら何か。

何もない棚に1つだけ飾るとしたら何か。

 

また、なんでもランキングやリストにするのもいいでしょう。

 

 

こういった質問を自分に繰り返すうち、

だんだんと自分にとって本当に必要なもの、大切なものがわかってきます。

 

そうすれば、それ以外のものへの心配は

大したことではなくなるのです。

 

 

 

 

私は、繰り返し書いているうちに

自分にとって必要なものはそう多くない、ということに気がつきました。

 

 

私という人間は、究極を言えば

おいしい珈琲と良い本があれば、事足りるのです。

 

これには拍子抜けしました。

なんてことはない、私には何1つ心配がない、と

肩の荷が降りるようでした。

 

 

 

同時に少し、愕然としたのも確かなのですが

 

 

 

以来、その土台があるならば、

自分の幸福に帰ってくるのがこんなにも簡単なら、と

大抵のことへ飛び込んでいくのが

全然平気になりました。

 

 

 

まぁ、人によっては

あんまり多くて、もっと頑張らなくてはならなそうだったり

或いは

全然大切にしていなかったものの大切さを思い出したり

良くも悪くも、様々な発見があることでしょう。

 

 

 

 

私が拍子抜けするとともに、愕然とした理由は

いかに自分の日々していることが

どうでもいいことかに気づいてしまったからです。

 

 

全く、本質的ではなかった。

 

 

どうでもいいような、薄っぺらいことばかりで

日々は形作られている。

 

それは、実際なかなかにショックで、大いなる問題でした。

 

 

 

それからは、また

実際と本質を書き出しては比べて、何度も微調整を行なっていったのですが

 

 

それはまた、別のお話。

 

 

 

 

ともかく。

自分を知り、本当のことだけに集中すること。

 

それは、心配事を減らし

少しだけ私たちを強くします。

 

ただ、知ってしまうと、前述のように

取り組まなければ落ち着かない、新たな課題が見えることもありましょうが、

 

誤魔化して生きていくよりは、多少辛くても

こっちの方がずっといいと思います。

 

 

 

 

私の珈琲と本のように、実際のアイテムだと

自分だけの救急箱を持っているようで

 

目に見える分、より頼もしいものを持てることもあります。

 

もちろん、書いたノートそのものが

私たちを救うこともあるでしょう。

 

何より、こうして何かを明らかにし、作るというのは楽しいことです。

 

 

 

 

 

結論を急がずに、深刻にならずに、そして

自分にとって本質的なことがわかっていれば

 

強く柔軟に、軽やかに生きていけると私は信じています。

 

 

 

始まりの春に、自分だけのノートを綴っていくこと。

 

おすすめです。

 

 

 

 

 

 

 

それでは、またのお越しを。

 

強さ。

 

 

 

 

ようこそ、宇宙喫茶 くらげやへ。

 

 

 

 

 

 

 

今日は、ひと言だけ。

 

 

私は近頃、幸福は選択であるという考え方を信じています。

 

 

何が起こるかは、私たちにはわかりません。

起こってしまったことは、変えられません。

 

 

ただ、

「何が起こっても、自分は幸福であることを選択する」

と決めることはできます。

 

 

 

幸福の定義は人それぞれ。

 

そこに他者を介在させず、

自分で自分の幸福を決めるのはもちろん大切ですが

 

同時に

 

 

何が起こっても動じない。

自分自身を左右させないと決めること。

 

 

 

落ち込むことは悪いことではありませんが、

いつでも戻って守られる場所として

自分の中に、しなやかな強さを持っておく。

 

 

何が起こるかはわからないけれど、

何が起こっても大丈夫という軸があれば

先の不安は和らぎます。

 

 

人は、信じたいものしか信じられません。

本当のことより、時にはそちらを選びます。

 

だからこそ、自分は何を信じたいのか、

どう在りたいのか。

 

 

 

日々問い続けることに、意味があると思います。

 

 

 

生きるとは変化することですから、

その信条もきっと変わっていきます。

 

 

変わりながらも、その時々の自分にいつも胸を張って

時代を渡っていけるように。

 

 

 

 

春分という節目を超えて、

ちょっと神妙な気持ちになったのでした。

 

 

 

 

 

 

それでは、またのお越しを。

 

適材適所。

 

 

 

 

ようこそ、宇宙喫茶 くらげやへ。

 

 

 

 

 

 

 

近頃、新しいことを勉強し始めて四苦八苦しています。

こんな日には、急な雨もありがたいです。

 

私は窓際で作業をしますので、ふと目を挙げて、外の様子が変化しているのは

どんよりした脳と気持ちに新しい起伏を作ってくれます。

 

 

 

人には人の、やり方がありますね。

 

 

 

 

子供の頃、私はなんでも早い方が偉いと思っていました。

 

実際、学校という1つの場所で、みんなで一緒になって勉強をしていると

ある程度の速度が求められます。

あんまり遅いと、途中で中断して、半端になったままでも

みんなに合わせて次に行かないといけません。

 

 

しかし、大人になって思うのは

1つの問題が解けるまで、そこで考え続けることは難しいことであり

それが求められる場も多いということです。

 

 

もちろん、速さが求められる場もあります。

 

ですが、基本は適材適所。

 

世の中は、子供の頃思っていたよりもずっと複雑で、

数えきれないほど多種多様な環境があります。

 

 

 

何かに取り組む姿勢も

深く集中して、短時間にギュッと中身を詰めるタイプの人と、

ゆっくりじっくり時間をかけて消化していくタイプの人。

 

同じことをするにしても、必要な時間は違い、それぞれにいいところはあると思うのですが、

時間で判断されると、前者はサボっているように思われ、また

後者はダラダラやっている、と言われたりするままならないものです。

 

 

 

習慣、何かを続けることも

毎日10分続ける方がやりやすい人もいれば、

3日に130分の方が続けられる人もいます。

 

 

いろいろなやり方があって、自分に合うやり方を選んでいいと思うのです。

 

 

 

1つのやり方ができないからと言って

すぐに止めてしまうのは、もったいない。

 

誰かと同じではなくてもいい。比べなくてもいい。

 

 

自分の基準で、やり方で、できていたらそれで良い。

そういう自分を認めて、褒めていこうじゃないか。

 

 

自分に言い聞かせる意味でも、そういう世の中であってほしいという意味でも

実践していきたい考え方です。

 

 

 

 

学んで試して実践して本来、そういうことは楽しいことです。

失敗はありません。

 

問題があるからダメだ、ではなく、

人間は問題を解決することを楽しめるはずなのです。

 

 

 

問題や失敗に寛大な世の中であってほしいと願いつつ、

なんであれ、私は負けじと我が道を行こう。

 

そんな思いで、今日ももう少し頑張ります。

 

 

 

 

 

 

 

 

それでは、またのお越しを。

 

空き。

 

 

 

ようこそ、宇宙喫茶 くらげやへ。

 

 

 

 

 

 

 

先日書いた、生活の中の要素をシンプルに、

ということに役立つ、私がやっていることの1つに

 

やらないことのリストを作る、というのがあります。

 

 

やることリストを書くのなら、

反対があってもいいのでは?と思って始めたのですが

 

具体的なことでも精神的なことでも

書いて、それが目に見えるところにあると

自然と意識に働きかけてくれるので、お勧めです。

 

 

 

今の私のリストには、例えば

 

マルチタスク(ながら行動)、嘘・言い訳、自分の価値を下げること、

不要になったものに執着することなど、

精神的なものが多くなっています。

 

 

やや不気味ですが、私の部屋の壁は

こうした張り紙がたくさん付いています。

 

なんでも描きたい性分と、自分の意識や記憶力をあまり信頼していないこと、

そして自分の弱さを自覚したことの結果でしょう。

 

 

それはいいとして、

 

書いておくと、自然と頻繁に目に入るので

思考がそっちに流れた時に、ああいけない、と

気をつけることができますから。

 

古典的ではありますが、そういうものがかえって効くのです。

 

 

 

 

やらないことを決めると、空きができます。

心にも時間にも。

 

そうすると、勝手に新しいものが入ってきます。

 

 

ずっと気になっていたことや、

分かっていたけど手を着けられないでいたことなど。

 

 

 

 

 

 

無理にやらなきゃいけないことを詰め込むより、

まずは引こうとしてみると、まぁ

引けるものがたくさんあるものなのです。

 

 

やらなくてはいけないと思っていたし

無意識にやっていたけれど

重要ではないし、楽しくもないし、いらないな、と気づくのは

少し妙な経験です。

 

 

 

ある意味、狐に包まれていたようでもあります。

 

誤解する、誤認する、ということは

思っているよりもとても多いことなのです。

 

 

 

気がつかないうちに、とても不自然なことになっている。

 

 

 

 

私は、何事も自然な流れを大切にしたいと思っています。

 

そのためには、

流そう流そうとするのではなく

勝手に流れるように、邪魔をしないことが1番効果的です。

 

 

 

執着が苦しみを生む、という仏教の考えは

正しいように思います。

 

意のままにしたい、と思えば

どんな小さなことにも、感情が揺さぶられてしまいますからね。

 

 

 

 

意図はあっていいけれど、固辞しない。

そうはならなくても、それはそれでいい。

 

 

なかなか難しいことですが、そうやって自然に穏やかに過ごすことが

私の小さな幸福です。

 

 

 

 

 

 

それでは、またのお越しを。