ことば。

 

 

 

 

ようこそ、宇宙喫茶 くらげやへ。

 

 

 

 

 

 

 

晴れたり曇ったり、いかにも季節の変わり目の天気が続きますね。

 

季節柄、ということもなく

私は大抵いつもぼんやりと考え事をしていますが

こんなふわふわした時期は、とりわけそんな時間が増えるような気がします。

 

 

 

私の考え事は悩み事ではないので、

答えを出すことを目的としていません。

 

ただあちこちへ思考や意識を巡らせて、

気が済んだらそこでおしまい、という散歩のようなものです。

 

 

そうしていると、よくわからない感覚に陥ることも度々あります。

 

そんな時はどうしようもないので、捉えどころのないまま

ぼんやりと眺めている様な心地で過ごします。

 

 

そして、

言葉によらないものがあると理解すること。

と同時に

少なくとも、言葉にしようと努めること。

という矛盾した2つのことは、どちらも大切だなぁと思うのです。

 

 

 

 

私たちは言語を介してコミュニケーションを取りますから、

当然、自分の考えや感じたことを言葉にして伝えることが必要です。

 

それは、私たちが私たち自身とやりとりをする時も同じく。

 

自分はどう感じ、どう思っていて、どうしたいのか。

しっかり分かっていないと、本心と実際の言動がチグハグになって

うまく舵を取ることができず、何かモヤモヤしたものがいつも残る羽目になります。

 

 

特に、「なぜ」という問いは、何に対してでも確信に近いことが多いので、

多少時間がかかっても、言語化を試みることをお勧めします。

 

 

 

もちろん、理由のないこと、

あまりに複雑か、或いは単純すぎて言語化できないものは、あります。

 

 

何でも言語化した方が、確かにわかりやすくはあるのです。

 

感じ方は人それぞれ、必ず人は共通ではない認識を持っていますから

せめてある程度の「共通」を担保できるものを用いなければ

意思の疎通は困難です。

 

 

しかし、同時に

言語化することで 限られてしまうことは必ずあります。

 

何かの枠に嵌めようとすることは、その外側を切り捨てることです。

 

 

 

 

私は全くおんなじ音源を、CDとレコードで聞かせてもらう機会がありました。

レコードには含まれる、ある特定の周波数は、情報の量の関係と、

どうせ人間には聞こえない周波数なので、CDではカットされているらしいのですが

 

明らかに、素人耳にも音が違うのです。

 

 

聞こえない周波数分の、余白の音。

 

 

 

枠の外側を意識しながら、内側を見極めることと

外をすっぱり切り捨てて、なかったことにしてしまうのでは

 

同じ内側だとしても、その中身は全く違ったものです。

 

 

 

 

言葉の外を感じながら、掴めないものを感じながら

それでも言葉にしていくこと。

 

相手のそれを感じたり、自分の言葉も

常に実験のように編んでいったり。

 

これは、人と話していたり文書を読んでいる時の

私の密かな楽しみでもあります。

 

 

 

 

言葉、とは不思議です。

 

共通認識記号でありながら、結局は記号でしかないので

各々の持っている意味は、厳密には異なります。

 

ちょっと、が5分の人と、15分の人がいる、というのは

わかりやすい例ですが

あらゆる単語に、それは絶妙に含まれています。

 

 

だから、他人を完全に理解する、共感する、ということは

根本的に不可能だと、私は思っています。

 

 

それでも、試みること。

 

努めること。

 

それが、コミュニケーションの基本ですね。

 

 

 

 

人との関わり、自分との関わり、言葉というものとの関わり。

 

 

言霊、というのもありますからね。

 

いつもより少しだけ、意識してみてくださいませ。

 

 

 

 

 

 

 

それでは、またのお越しを。